社交ダンスを楽しむうえで欠かせないのは、知っているステップの量やテクニックだけではありません。
それぞれの種目に対する深い理解もまた、ダンサーにとっては大事な知識です。
こんなことを思ったことはありませんか?
『社交ダンスはどのように成り立ったのだろう。』
『なぜワルツの他にヴェニーズワルツがあるのだろう?』
『サンバはリオのカーニバルのサンバと何が違うの?』
このような知識は、そのダンスが成り立った歴史を理解すれば、解決することができます。
そしてこの記事では、歴史的な観点から『社交ダンス』に対する理解を深めていこうと思います。
最初に日本語の『社交ダンス』はどのようなことを指しているのかを確認しましょう。👇
一般的に日本語で『社交ダンス』と呼ばれているものは、
カップルダンスの全てを含むボールルームダンス(Ballroom Dance)と呼ばれているものです。 そしてそのボールルームダンスを楽しむ方の総称として『社交ダンス』と『競技ダンス』に別れています。 |
歴史的な観点や、歴史的な文化的背景を知ることは、必ず社交ダンサーの役に立ちます。
この記事を最後まで読むことで、なぜそう言えるのかきっとわかるはず!!
この記事では、
●日本の社交ダンスの歴史
●『ワルツ』の歴史
●『サンバ』の歴史
を紹介していきます。
それでは、見ていきましょう…!
ボールルーム(Ballroom)の歴史
ボールルームダンス(社交ダンス)そのものはカップルダンスを指します。
つまり多様な種類のダンスを含むために、ボールルームダンスの正確な始まりを定義するのは難しいのです。
ですが、『Ballroom』(ボールルーム)の言葉の由来を知れば、その概念の始まりはわかるはず。
ですからここでは、この言葉の由来を主に紹介していきます。
そもそもボールルームダンス(Ballroom Dance)という単語の『Ball』とは何を指すのでしょうか。
実はこの『Ball』はラテン語の『踊る』という意味の『ballare』から来ています。

そして『room』(部屋)という単語からもわかるように、ダンスのために作られた大きな空間のことを『Ballroom』というわけです。
別記事で『Ballroom Dance』(ボールルームダンス)は全てのカップルダンスを指すと紹介しましたが、
(『初心者のための「社交ダンス」と「競技ダンス」の違い講座』をチェック!)
その言葉通り、その当時人々に踊られていたカップルダンスが『Ballroom Dance』として定義されています。
つまりその時代における時代背景や、文化や流行に応じて、『Ballroom Dance』の定義も変わってきたということです。
例えば、メヌエット、クアドリール、ポロネーズ、ポルカ、マズルカなどのダンスを聞いたことがあるでしょうか…?
これらは現代では歴史的なダンスとしてみなされているものの、
どれも当時『Ballroom Dance』として多くの人に親しまれていたものなのです。
時代背景や文化などで定義が変わるボールルームダンス。
では、今私たちが日本で楽しんでいるボールルームダンスは、
どのような歴史や文化を通して成り立ったのでしょうか。
日本の社交ダンスの歴史
それではヨーロッパで生まれた社交ダンスが日本で楽しまれるようになった過程を見ていきましょう。
日本史を学んだ事がある人は懐かしいワードが出てくるかもしれません!
明治時代の日本の外交問題は特に課題が多いものでした。
なぜなら、ほんの数年前まで行われていた打首などの『非先進国的』な文化を在留外国人は実際に見ていたので、海外に対する日本のイメージはあまり良いものではなかったからです。
日本が『文明国』であることを広く示す必要がありました。
だからこそ、当時の外務卿であった井上馨は、『鹿鳴館』設立を勧めたのです。
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鹿鳴館|世界の歴史まっぷより引用
『鹿鳴館』は海外との外交の場として設立されました。
でも場所だけ設立しても何の意味にもなっていないですよね…
だからこそそれと同時に、社交界スタイルのダンスとして、
『社交ダンス』が初めて日本に入ってきたわけです。
ウィーンの上流階級文化を頑張って真似たわけですね…
ですがやはり、無理があったようです。
日本の政府高官やその夫人方は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットを知るすべもなく、西欧人の目からは様にならないものでした。
西欧諸国の外交官も表向きは舞踏会を楽しみながら、日本人をバカにするような多くの書面や日記が残っています。
また『社交ダンス』がそもそも踊れる日本人女性が少なかったために、
頭数を増やすためにダンスの訓練を受けた芸姑や高等女学校の生徒も動員されていたようです。
井上馨の外交政策は国内からもそんなに人気のあるものではありませんでした。
非難を受け、井上馨の外務大臣辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになったのです。
その後、しばらくして1918年に鶴見花月園にダンスホールが開設されたことで、富裕層を中心に欧米流社交ダンスが流行したと言われています。
鹿鳴館の外交政策の失敗では社交ダンスは廃れなかったわけです。
第二次世界大戦の開戦で、社交ダンスなど人々の娯楽的な文化は衰退することになりますが、
終戦後、進駐軍向けにダンスホールが多数開かれて後、庶民にも社交ダンスが浸透するようになりました。
もちろん海外文化を受け入れなかった日本人もいたので、その頃『ハマジル』や『カワジル』などの和製ダンスを生んだと言われています。
雰囲気的にはアメリカンジルバっぽいダンスです。(笑)
海外ものは嫌だけどダンスはしたい!というその当時の若者の心意気を感じます…
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探検コム社交ダンス鹿鳴館より引用
日本の社交ダンス文化は、そもそも『日本は進んでる!』というアピールをするためのものでした。
その当時西欧文化が正しく取り入れられはしなかったのは確かです。
ですが、目新しい異文化が人々に衝撃を与えセンセーショナルを巻き起こしたことは、良くも悪くも多くの人に影響を与えたのでしょう。
おそらく、『もっと社交ダンスをやってみたい!』と思う若者がその当時もいて、文化を受け継いだおかげで戦後も社交ダンス文化が残ったのだと考えると、
なんだか親近感が湧きます。
これからも社交ダンスが日本人の心を動かし続け、いつまでも文化として残っていれば良いな、
…と思わせてくれる日本の社交ダンスの歴史です。
『ワルツ』の歴史
競技ダンスのスタンダード種目にはワルツとヴェニーズワルツがあります。
どちらも『ワルツ』と入っていますが、結局のところ何が違うのでしょうか…?
実は、そもそも起源は同じであると考えられています。
ここでは起源である踊りをそのまま『ワルツ』と呼んでいきます。
ワルツは17世紀にオーストリアとバイエルンでカントリーフォークダンス、つまり農民の踊りとして生まれました。
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The History of the Waltz – Jane Austen centreより引用
その農民の踊りは『ヴェラー』(Weller)と呼ばれていました。
男女が体を接して回るダンスであったために汚らわしいとされ、ハプスブルク帝国時代、長年にわたって法律的に禁止されていました。
実際に18世紀に書かれたドイツの小説の中で、ワルツはこのように不満を言われています。

18世紀から19世紀にかけて徐々に『ワルツ=回転するダンス』というような認識と理解が広まります。
そしてその認識に合わせて、ウィーンではワルツのビート、音楽が成立していきます。
皆さんご存じ、ワルツのカウント(1、2、3)はここで生まれたわけです!
そしてできあがったワルツは人々に衝撃を与えました。
人々の流行になり、ナポレオン戦争などを通して様々な場所へ伝わっていくことになります。
19世紀イギリスへ伝わった際には、ワルツはこれ以上ないほどのセンセーションを巻き起こしました。
ですがやはり、『わいせつ』だとして受け入れられるのは時間はかかったようです…
そして『ワルツ』はこのような流れから次第に社交ダンスとして成立したのです。
人々や文化が定着させた『ワルツ』が基盤となって、他のカップルダンスに繋がっていきます。
(非常にざっくりとではありますが)
ワルツの歴史的な定義として、
・1、2、3というリズムで踊るということ
ワルツから様々なスタイルが派生して生まれ、
そしてその一つがヴェニーズワルツであるというわけです。
競技ダンスにおいて、『ワルツ』と『ヴェニーズワルツ』をそれらを区別化するために、英語ではこのように表記されています↓

私達がワルツと呼んでいるものは、海外では『Slow Waltz』(スローワルツ)と呼ばれていることが多いのです👇
slow waltz
Youtubeより引用
『Slow Waltz』と呼ばれているために、『めっちゃ遅いワルツ…?』と勘違いするかもしれませんが、
これが私達の知る『ワルツ』の呼び名です。
今は競技ダンス(Competitive Dance)の世界では別種目のように扱いますが、
そもそも同じ起源の踊りから生まれた2つのダンスを区別するために、名前に違いが出たと言うことができるのです。
『サンバ』の歴史
『サンバ』と聞いて、どんなイメージが湧くでしょうか。
きっと2パターンあるでしょう…。
社交ダンスの『サンバ』
もしくはブラジルのリオのカーニバルのような『サンバ』
実はどちらの『サンバ』も、起源は同じであると言われています。

19世紀にブラジルで生まれたサンバは、ワルツなどと違い、そもそも庶民のダンスでした。
当時ブラジルでは奴隷制度が残っていました。
『サンバ』はサトウキビ農園で奴隷として働いていたアフリカ系の人々が生み出した娯楽なのです。
奴隷制度が終わったあと、ダンサーは自由に移動ができるようになり、
解放された人々はカーニバルのためにダンス隊を結成しました。
もちろん、ダンスそのものが賑やかであったために、上流階級には好かれなかったと言われています。
それでも、サンバは魅力的であり、その人気は階級や国境を超えて、
そして国際的な影響によってより豊かに進化していきます。
そのように人気が階級や国境を超えた先で、
1940年代初頭、西ヨーロッパとアメリカで『社交ダンス』スタイルのサンバが普及するのです。
そのベースになったものは、主に1870年から1914年頃に流行した、『maxixe』(マシーシ)と呼ばれるダンスです。
この『マシーシ』はブラジルのタンゴとして知られており、今ではほとんど踊られていません。
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wikiwandより引用
よく、『ブラジルのサンバと社交ダンスのサンバは何が違うの…?』という質問を耳にすることがあります。
簡潔にまとめれば、
●奴隷制度と戦いながら人々が生み出した、癒やしや希望のダンスである”原点”に近いサンバ →ブラジルのリオのカーニバル●庶民的であるにも関わらず、派手で華やかな魅力が海外にまで影響を与え、様々な文化を取り入れながら進化を遂げたサンバ →社交ダンス(Ballroom) |
…と言えるのではないでしょうか。
このような知識を身につけることで、サンバの魅力が増したはず。
踊る人だけではなく見ている人までもノリノリにさせ、心から楽しくさせてしまうのは最も大きなサンバの魅力です。
その魅力の『影響力』や『人の心を動かす力』は、
サンバの発祥から現在に至るまで、人々のエキサイトメントを刺激し続けていると言えるのです。
まとめ
『社交ダンスの歴史や成立の過程を理解すること』は、
ダンスそのものの理解を深めることになります。
テクニックやステップを覚えたり、ダンスの技術を高めることももちろん大事です。
ですが私達は、異国で生まれたダンスを習っているわけです…
だからこそ、様々な方面から社交ダンスを理解していくことは非常に重要だと思います。
それに、ボールルームダンスはその当時の人々の文化や歴史的背景に非常に大きく影響を受けています。
そのようなバックグラウンドを知ることで、
あなたのダンスそのものの興味やモチベーションがもっと高まるはずです。